情報量と質の両立
【キーフレーズ】
・リーチ
・リッチネス
情報の手段の多さ、量の多さがリーチであり、情報の質、内容の濃さがリッチネスである。
本を書店で売る場合は売ることのできる種類(リーチ)は限られてしまうが、現物を則入手したり立ち読みしたりできる点でリッチネスには重きが置かれているといえる。これは本に限ったことでなく、リアル社会のすべての状況で起こりうる可能性がある。
例えばアマゾンがオンライン上で本を売った場合、在庫を置くスペースや直ぐに卸売りのできる状況さえあればリーチの点に関しては問題なく、むしろ限りなく拡大できる。一見リッチネスをその分高めることができないように見えるが、試し読みのできるシステムなどといった改善を行えばリッチネスも担保できる。つまりは、情報社会になったことによりリーチとリッチネスの両立が可能になったということが言える。
また、リーチが増えるということはロングテール現象が起こる可能性もある。ロングテール現象とは、グラフ横軸に「商品数」縦軸に「販売数」をとった場合、しっぽのように徐々販売数数が減少することである。簡単に言えば、本の種類が多ければ多いほど売れない商品も中には出てくるということである。リーチに限界のあるリアル社会では点線ラインで在庫管理をしなければいけなくなる。しかし、オンライン上では限りなくニッチな層にも最適な商品を販売することができる。
寄り道を増やしていきたい
人生にはある程度の型が存在している気がする。俺の思い込みかもしれないけれど、たぶんあると思う。
これぐらいの歳になったら就職して、結婚してといった具合に。
だけれども、同時にいわゆる型どおりにいく人生というものは存在してないとも考えている。
型どおりにいくなら「黒歴史」なんてワードはこれだけ使われるようにならないわけだし、そもそも絵に書いたような人生は味気ない。
経済用語にトレードオフという言葉があるが、何かを得るには何かを代償にしなければならないという意味だ。これは経済に限らず様々な真理をついていて、例えば車を動かすにはガソリンを代償にしなければならない。
人生もトレードオフなのだ。トレードオフは連鎖する機能があるから、何かをすればそれが何かを起こすのだ。例えばエネルギーを代償にして働く力を得て、それを代償としてお金を得て、それを代償として車やガソリンを買って、それを代償として車に乗って、それを代償として何処かへ行き、それを代償として出会いが生まれ、、、マトリョーシカのようなものであろうか
先に述べた通り、型どおりの人生が存在しないからこそ、人生の寄り道によるトレードオフ効果が大いにあると考えている。
急がば回れ、寄り道を大切に。どこ目線で誰へ向けて書いているのか自分でもわからないが、多分自分への戒めか何かだと思いながら締めさせていただく。
過去の失敗を話にしてみた。
あれは高校入学したての頃だった。今でもはっきりと覚えている。
何がって?そりゃあ、高校入学後初めての定期考査試験のこと。特に物理基礎。僕は中学理科の物理はそれなりにできると思っていた。だから高校の定期テスト、それも出題範囲が滅茶苦茶狭い物理基礎だったら、勉強なんかしなくても70点、いや80点は取れると確信していた。
それでもって物理基礎の定期テストの日。朝から涼しい顔してクラスに入っていき、勝利を確信したかのような面構えで席に着いた。本当に試験開始のチャイムが鳴るまでは楽勝ゲーだと思っていたのだ。
朝礼を行い、テストが受けられるよう出席番号順に席に着いた。テスト用紙が配られ、みんなの顔がだんだんと真剣な表情になっていく。
キーン・コーン・カーン・コーン
「はじめ!」
教師の合図とともにみんなのプリントをめくる音が教室中にあふれた。
(よっしゃ一発勝ちに行ったるわ!)そんな威勢のいい心の中の僕は数日後に大後悔するとは思ってもみなかったろう。
ペラッ
問題用紙をめくってみた。ん?んんんん?
問題用紙には日本語が書かれているはずだよな?何度も問題文を読み返す。しかし意味が理解できない。そう!まったくもって解き方がわからないのである!
それでも一応中学理科の知識を総動員して何とか埋めた。何とかだ。もしかすると60点は取れるかもしれない。そんな気がした。
数日後、物理の授業。テストが返される日だ。教師は機嫌よくこういった。
「うん!みんなよく勉強できていた。平均点は88点。とてもいい調子だから、この感じで頑張っていこう。」
お、もしかしたら僕も60数点はとれているかもしれないと少し期待した。
テストの返却が始まった。出席番号順に名前が呼ばれていく。あ、い、う、浦田、次が自分だ。来る。判決の時が来る!緊張で胸の鼓動が高まる。
「おし、次!ウルノ!」
ニヤニヤしながら教師が言った。僕は席を立ち、教壇に近づく。そした教師から自分の解答用紙をもらう。
人とは追いつめられると変なことを考え出すのかもしれない。席に着くまでは点数をみないのが自分のモットーだったのだが、ここで見たら何か時空のゆがみで満点になるかもしれない。そんなことを考え出した。
しかし、その誘惑に耐え席に着いた。解答用紙を一思いにめくった。
「7点」
どうやら僕は初回の定期テストから留年の危機にさらされてしまったようだった。
RTは正当性を保証しない
Twitterでの情報はすぐにRTという形をとって何万人に周知されていきます。RTというものは、存在上、ある情報を他者に共有するという機能を持ち合わせているわけですので、共感とか称賛といった意味を含蓄しているといえるでしょう。
ですが、このごろ虚偽のツイートが拡散してしまう件が示すように、その情報の正しさはどこにも担保されていません。
それでも人はマジョリティーを好む習性があります。RTの数はそれだけマジョリティーの規模を表すものであり、マジョリティー=正しいと無差別に捉えてしまう人も少なくないのです。
この機能を利用すれば、正しくない情報だって正しかったことにできるのです。国の機関だってそれを利用することができますよね。例えば、選挙期間中の韓国やアメリカで、ある党がインターネットを用いて虚偽の情報を拡散させ、自分の党を優位な位置にたたせようとしたことがあったりしたのは最近の話です。もっと小さい規模だって起こってるかもしれない。その情報の正しさを検証しないことは現代では非常に洗脳されやすい状態にあると言えます。
昔だって新聞やテレビで虚偽の内容を拡散できたじゃないかというかもしれない。だがそれは少し違います。新聞やテレビなどの媒体は、どこが発信し、誰が書いたか、誰が企画したかということは調べようと思えば調べられる。つまりは情報発信者に多少なりとも責任が付きまとうのであります。人は責任を感じれば、おおっおぴらな嘘をつくことはまずしません。
かわってネットはどうでしょう。発信者をIPアドレスで突き止められるという人がいるかもしれないが、IPアドレスを偽装することは今では簡単に行うことができるのであります。つまりは、匿名性は未だに確保されていると言えます。名誉毀損や営業妨害などの法律に引っ掛からない範疇であれば何を言おうが個人を特定されることはないのです。
話を戻して、私がRTは情報の正当性を保証しないということについて述べようと思った理由は、ある人が正しいことを言っていても、Twitterでは詭弁や嘘を用いて逆攻撃をし、RTや支援者が後者に多ければ後者が正しいということになりやすいと思ったからなのです。
我々は正しい情報を信じ、嘘を言うものは排除しなければなりません。そのためにも、日頃から信用できる情報源でサーチする習慣をつけることが大事なのかなと思っています。
ガハハハハ
お久しぶりでございます
ブログの下書きがバカみたいにたまっているウルノでございます。
ブログのネタになりそうな良いつぼみを摘むには摘むのですが、焙煎で失敗しまくっているわけであります。
何か真面目なのを出し続けるのも気が引けるので、アホらしいこと書こうと思うのですが、いかんせん浪人時代に失ったものが多かったようであまり思い付きません。
とりあず再焙煎しようと思います。
まーた芸術だよこいつ、飽きねえなぁ
お久しぶりです。そして令和元年もよろしくどうぞ。
最近投稿しなかったのは忘れてたとか、ネタがなかっとかそういうことではありません。少しばかりゲームに熱中していただけであります。
そんなことはさておき、今回取り上げたいのはシュールレアリスムでござます。超現実主義ともいいますよね。
シュールレアリスム(仏: surréalisme[1]、英: surrealism[2])は、フランスの詩人アンドレ・ブルトンが提唱した思想活動。一般的には芸術の形態、主張の一つとして理解されている。
今回はその中でも、「アンダルシアの犬」という作品に関して少しばかり取り上げます。
『アンダルシアの犬』(フランス語: Un Chien Andalou)は、ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリによる1928年に製作され1929年に公開されたフランスの映画である。
細かく言うと、ルイスブニュエルが監督、そしてサルバトールダリが脚本の助言をしました。
この映画は非常に短く、21分しかありません。なのでまず見ていただきたいというのが本音なのですが、いかんせん内容がグロテスクかつ気味が悪いため、そういうものが苦手な方には控えていただきたいと思います。
いかがでしたでしょうか。何かわかりましたか?
え?何もわからない?意味が不明?
そりゃそうでしょう。特にこの映画から明確にくみ取れる意味など込められていないのですから。明確にくみ取れる意味がないのであって、完全に意味がないということではありません。大筋的な意味では、シュールレアリスムの思想を孕んでいるわけですから、現実を超える、夢の中のにいるよね?感を生み出すことメインにしているわけであります。今回は風刺というわけではありません(もしかすると既存の芸術、とりわけ写実主義を皮肉っている可能性はありますが、文学部ではないのでそれ以上はわかりません)。
大筋以上の意味は個人個人の感覚とか意見が尊重されるわけですし、それを相手に押し付けることはあってはならないと思います。例えば今回の映画では、「大人の赤ん坊が親に大事に育てられていたが、途中から第三者に大人になれと言われ、それに憤慨した大人の赤ん坊が終盤でその第三者を射殺した、これは現代の引きこもり問題に通ずる」なんて意見があってもいいですし、「これは人生の大まかな図であり、愛がありスリルがあり、なんやかんやあるのはその具体例にすぎない」という意見があってもいいわけであります。
これがシュールレアリスムです。
シュールレアリスムで有名な画家は、ルネマグリットでしょうか。
洒落た人がよくSNSのプロフィール画像なんかにしちゃう絵を描いてる人です。この人はシュールレアリスムといっても、あまりに現実離れしたものではなく、どちらかというと具体的なわかりやすいタイプのシュールレアリスム画家だと思います。
ルネマグリット「これはパイプではない」
そりゃそうです。キャンバスの上にのった絵の具にすぎないのです。パイプに見えるけど、結局は絵の具で描かれた概念にすぎません。
サルバトールダリも有名ですが、もう眠いのでここまでにしときます。
アンディーウォーホル
KOHHというラッパーをご存知であろうか。まぁ多分知ってる人は多いと思うが、そんな彼の「Dirt boys」という曲の中で、『アンディーウォーホルみたいな思考の人もいるよ、俺もそうだし、俺の友達もそう』という歌詞がある。
ここで疑問に思うのが、アンディーウォーホルみたいな思考とはどういうことだろうかということである。それを知るためには、アンディーウォーホルが何をした人間であるのか知る必要がある。
アンディーウォーホルはチェコスロバキア生まれの芸術家である。芸術といっても、フランスのルーヴル美術館で飾られているような価値を測り切れない一品物の作品のことを指すのではない。彼が主に専門にしたものはポップアートと呼ばれるものである。
だれもが毎日、大量生産の製品に囲まれ、それらを消費し、テレビや雑誌でその広告にさらされる生活を送っている。ポップアートの運動の中には、これら下世話な製品やサブカルチャー、生活様式を批判する意図をこめたものがある
つまりは、物質的飽和状態にある現代を風刺するものがポップアートというわけである。
まずポップアートの意味が理解できたところで、アンディーウォーホルの代表的作品を見てほしい。誰もが見たことあるはずである。
https://www.artpedia.jp/campbells-soup-cans/
これは『キャンベルスープの缶』と呼ばれる作品である。と言わなくても知っているか。
これは一つの作品なのではなく、『キャンベルスープの缶』がたくさん飾られている写真である。どういうことかというと、この一つ一つの絵はシルクスクリーンという技法を用いて、大量生産された絵なのである。ちなみに今でもこの絵は世界中で取引されており、オシャレなカフェやレストランに行くと大体アンディーウォーホルのこれか、『マリリン・モンロー』が飾られている。アンディーウォーホルの作品はこれなのである。これすべてが彼の作品なのである。○○のカフェにある絵も、○○というレストランにある絵も、アンディーウォーホル自身の作品なのである。(詳しくはサンデーBモーニング版で調べてください。もはや哲学の範疇での話ですので、ここではざっくりにしておきます。)
よくわからない?わからなくても大丈夫である。飽和という状態を、大量生産されているもの(つまりは、食品の缶、映画で全世界に普及される俳優や女優)をコピーした絵を大量生産することで表すところに、ポップアートとしての最高級の風刺があるのである。
つまりは、簡単にいってしまえばアンチ大量生産ということであろうか。人が周りに流され、みな同じように生きることに反して、各個人が独立した個として存在することに意味があるということを逆説的に表そうとしたのだろう。それがアンディーウォーホルの思考であり、KOHHもそのとおり、普通の一般受けするようなアーティストではなく、特徴のあるアーティスト、人間であろうとする意志の表れなのではないであろうか。
そんなくだらないことを考える、GW前の午後9時ごろである。